昆虫担当学芸員協議会
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昆虫担当学芸員協議会ニュース

(詳細)
タイトル: 昆虫担当学芸員協議会ニュース18号
投稿者: kana
日付: 2009-9-28(月)
時刻: 09:40
閲覧数: 8384
内容
昆虫担当学芸員協議会ニュース18号のテキスト部分です。末尾にpdfファイルをつけておきます。
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第17回昆虫担当学芸員協議会総会の報告

本協議会の第17回総会が、香川大学における日本昆虫学会第68回大会D会場において、2008年9月15日(月)17:30〜19:30に開催された。総会のテーマは、「次世代に託す博物館―学芸員生活を総括する―」であった。一昨年の総会や公開シンポジウム「2050年の博物館」において、若手の学芸員のお話を聞いたので、この総会ではお二人のベテランに過去の貴重な経験を紹介していただいた。長期にわたる学芸員生活を総括した珠玉の言葉の数々に、多くのヒントを得た参加者も多かったのではないだろうか。それらの内容については、本号に詳しい報告があるので、ご参照願いたい。参加者は43名であった。総会終了後には、恒例の懇親会を会場近くで行った。

総会参加者(50音順)

池田綱介((財)岡山県環境保全事業団),上田恭一郎(北九州市立自然史・歴史博物館),植田義輔(KANSO),碓井 徹(埼玉県立自然の博物館),梅村信哉(鳥取大学乾燥地研究センター),大原賢二(徳島県立博物館),大場信義(横須賀市自然・人文博物館),奥島雄一(倉敷市立自然史博物館),加藤 学(山田養蜂場),金沢 至(大阪市立自然史博物館),金杉隆雄(ぐんま昆虫の森),金子順一郎(パラダ昆虫館),川上 靖(鳥取県立博物館),岸 真(東京農業大学大学院),沢田佳久(兵庫県立人と自然の博物館),笹川浩美(国際科学振興財団),島田 孝((株)静環検査センター),清水将太(筑波大・院・生命環境),関谷 薫(筑波大学院菅平高原実験センター),高桑正敏(神奈川県立博物館),高木真人(香川農試満濃分場),竹内啓一(大阪府立大学),茶珍 護(群馬県立ぐんま昆虫の森),出嶋利明(香川県高松市),中西康介(滋賀県立大学院),友国雅章(国立科学博物館),中村剛之(栃木県立博物館),中垣裕貴(筑波大学院菅平高原実験センター),中浜直之(京都大学),新倉和宏(首都大・動物系統),根来 尚(富山市科学博物館),畑田 彩(京都外国語大学),林 太朗(首都大・動物系統),平田慎一郎(きしわだ自然資料館),福澤卓也(東京都),福富宏和(東京都国立市(サイエンス倶楽部)),松本吏樹郎(大阪市立自然史博物館),簑島悠介(北海道大学大学院),村上大介(滋賀県立大学環境科学部),安岡拓郎(神戸大学大学院農学研究科),矢野真志(面河山岳博物館),八尋克郎(滋賀県立琵琶湖博物館),山田量崇(徳島県立博物館).



将来の昆虫相解明の担い手育て失敗談

高桑 正敏
(神奈川県立生命の星・地球博物館)

 2008年3月に神奈川県立生命の星・地球博物館を定年退官した機会に、学芸員として自分が果たしてきたことを振り返ってみた。その評価点の1つが「将来の昆虫相解明の担い手育て」であった。
 じつは、当館に事務局をもつ神奈川昆虫談話会(会員数約230名)でも、会員数自体は減少していないが、会員の高年齢化および若い層の欠如が問題となっていた。このままでは将来、神奈川昆虫談話会を運営する人たちがいなくなり、神奈川県周辺の昆虫相解明もできなくなってしまうのではないか、と恐れたのである。そこで、博物館で開催する講座を利用し、将来の昆虫相解明の担い手育てを考えたのがちょうど10年前のことであった。
 それまでは、単発の採集・観察講座を行ってきたが、単発だと多くの子どもが集まる一方で、小学校高学年あるいは中学生になると講座に参加しなくなってしまう傾向が強かった。それでは虫屋は育たない。そこで、講座の内容を年間数回の連続ものとし、すべてに参加するように義務付けた。1999-2005年の「昆虫採集入門」講座と2007年以降の「めざせ!昆虫博士」講座である。さらに同僚の苅部治紀学芸員は2006年以降に「トンボ調査隊」講座を、また友の会主催での1泊の採集会も2人で毎夏に行った。この方法だと、応募人数はずっと少なくなるが、より昆虫好きな子どもたちが集まった。本当に好きな子は毎年のように参加する。何人かは確実に「虫屋」の道を歩んだし、中学生になってから神奈川昆虫談話会に入会した。神奈川昆虫談話会も若手の受け皿を用意し、一般会員が5000円のところ、中学生・高校生会員を1000円、学生会員を2500円と優遇した。
 しかし、将来の昆虫相解明の担い手育ての企ては、必ずしも成功しなかった。というのも、10年にもわたる試みの中で、虫屋の道を確実に歩んでくれているのはわずか数名にも満たなかったからである。博物館講座から巣立ったかなと思えた中でも、高校生や大学生になってから興味を他に移してしまい、結局は昆虫から遠ざかってしまった人たちもいた。
 総括してみると、虫屋になるかならないかは、虫ともだちがいるかどうか、学校生活に虫を指導してくれる人がいるかどうか、理解ある保護者に恵まれているかどうか、などの環境面も大きい。しかし、それ以上に重要なのは、子どもたち本人の問題であるように感じる。虫好きな子どもたちを、より確実に虫屋に育てるために博物館講座を用いるならば、もっと子どもたちと触れ合うような講座にしなければならなかったと反省している。

30年間の博物館学芸員活動を顧みて

大場 信義
(大場蛍研究所/横須賀市自然・人文博物館研究員)

この小論は2008年昆虫学会での昆虫担当学芸員小集会で発表した内容の概要を記している。ここでは私がホタルを研究するいきさつや30年間にわたる博物館学芸員活動とその目標、そして退官後の活動を含めて紹介した。なお、この原稿は2009年に出版された拙著「ホタルの不思議」(どうぶつ社 307ページ)から抜粋、改変、加筆したものである。詳細については本書を参照いただきたい。 

ホタル研究を開始する
1971年の羽根田博士(元横須賀市博物館館長)との出会いを契機に、私は企業の研究所に勤務するかたわら、週末には博物館に出入りし、当時、非常勤職員扱いの立場で博物館研究員として、自由に出入りする便宜を与えられた。この研究員制度は特に義務をおわされているものではなく、博物館の調査研究活動を外部の研究者に支援してもらおうとする制度であり、現在もなお受け継がれ、私はこの時から30数年を経て、再び研究員として博物館に出入りしている。
 羽根田博士は丁度このころに博物館自然館の新築という多忙な仕事を抱えておられ、また日米科学協力事業の一環としてゲンジボタルの室内大量飼育をも実施しておられた。そうした状況もあって博士はホタルの大量飼育実験を私に勧められた。その研究の目的はアメリカの科学者らと共同でホタルの発光反応を解明しようとするもので、このために発光物質をホタルから抽出し、精製する必要があった。 
室内の狭いスペース内で安定的に幼虫を得ることの限界を把握して効率的な飼育技術を確立することを目標としていた。具体的には博物館屋上の生体資料室において、熱帯魚飼育水槽に循環濾過装置をつけて幼虫を過密飼育した。これらの経過は1973年および1974年の横須賀市博物館雑報に報告されている。
 
博物館研究員時代
企業の研究所に勤務しながら、一方では博物館研究員として、毎週、博物館へ通い、ゲンジボタルの飼育方法の改良から始め試行錯誤を繰り返した結果、大量飼育実験もほぼ目標を達成し、熱帯魚飼育水槽で1200個体の幼虫を飼育することができた。この飼育で苦労したことは、過密飼育の宿命的な問題であるが、幼虫の餌となるカワニナを常に確保しなければならないことである。さらに循環ポンプや濾過装置の故障、予期しない停電などは最も注意しなければならないことであった。
この実験は4年間ほど続け、この間に以上あげたトラブルによって半年近く飼育して折角大きくなった多数の幼虫(1000個体以上)を1日で死滅させてしまった苦い経験もある。

博物館学芸員となって
博物館研究員として出入りしているうちに、ホタルや昆虫をより深く研究することができるようにと羽根田博士より博物館学芸員になることを勧められた。私は1975年に博物館技術吏員として横須賀市博物館に転任することになり、国家試験によって学芸員資格を取得し、本格的にホタルの研究を開始したのである。その後、2006年3月末までの30年間、学芸員を務めてきたが、この間に学芸員の役割とその目標などについて考えてきた。
文化を守り、創造し、伝えていくことが学芸員の役割と考え、そのために博物館は機能することが大切なのではないかと思っている。従って活動目標や適切な意思決定などのほか、学芸員の評価方法などは現状では多くの改善すべき問題を抱えていることも痛感している。
近年は財政事情の悪化などの理由により、これまで築きあげられてきた博物館活動にしわ寄せが進み、継続性が崩壊しかねない状況が各地で見られる。文化の基盤ともなる博物館の機能が健全に保たれることを切に望んでいる。
私が考える博物館活動とは、調査研究と資料収集活動に基づいた実質的な活動を重視することである。研究活動の独自性が反映されれば、展示、教育普及活動も特徴あるものとなり、情報発信や提言も責任あるものとなる。現状では多くの公立博物館の場合、学芸員が専門職・教育職に位置づけられてなく、行政職や一般事務職扱いとなっている場合が多い。ちなみに横須賀市自然・人文博物館では行政職となっている。
こうした場合には専門性の能力が正当に評価されない事態を生むことになる。私は学芸員となっていつも自身が考え、行っている博物館活動が妥当なものかどうかを確認しながら仕事を進めたいと思ってきた。同様な考えを持っていた植物部門の学芸員である大森雄治氏とは、そうした博物館活動のありかたを常に議論し、確認しあうことができ大変有意義な機会であった。博物館行事においても、昆虫と植物部門が共同で行うなど、市民への受け入れ態勢の間口を広げることも実践した。また当時、昆虫部門の研究員であった森下和彦氏は、マダラチョウ科蝶類の専門家であり、氏の真摯な研究姿勢に私は大いに刺激され、励まされた。 
ホタルを追い求めているなかで、既に35年以上も経過したが、羽根田博士は生前に私の話しを常に聞いてくださり、このことによって私はさらなる研究意欲をかきたてられたのである。
 博士は研究の独自性(オリジナリティー)をとても大切にされ、他人が長年築いてきたことをトレース、真似し、少し改変して時間をかけずに手っ取り早く自分の成果につなげようとするような研究姿勢を戒めておられた。
私の学芸員時代に多くの影響を与えていただいた元京都大学日高敏隆教授(現京都大学名誉教授)は常々「研究はおもしろく、楽しくなければならない」という信条を語っておられ、この信条は私も思っていたことのひとつである。特に博物館は研究所や大学とは大きく異なり、学芸員は市民に何らかの形で貢献することが不可欠である。研究のための研究ではなく、研究成果が市民に実質的に還元されることを常に念頭に置くことが重要である。
 私は、そのことを反映させるためにはまず学芸員が行っている研究が自身でおもしろいことが前提であり、自身がワクワク、ドキドキし、驚き、感動していることが大切と思う。私は長い間、博物館の学芸員として博物館活動を行ってきたが、最終的に行きついた考えはこのワクワク・ドキドキを市民と共有することであり、更に、一貫してその活動を継続することであると考えるに至った。以上の考えの基盤となったことはまさに日高教授の信条である「研究はおもしろいものであることが大切」ということにはからずもつながる。 
多数派や流行に乗った研究は独自性の観点から必ずしもおもしろいとはいえないこともある。更に同じような研究で競争することは楽しくない。また、私は単に論文をたくさん書くという目的で研究を行っているのでもない。論文は研究を継続すれば必然的結果となって多くなるものと思う。ちなみに1973〜2007年までの35年間の間に印刷された私の著書、解説文や論文は約400篇となり、現在もなお追加されている。
 博物館は研究を遂行する上で、勤務時間中に没頭できる時間が少ないこと、また経費の面からも研究機材などを用意することはほとんどできない状況におかれている。そこで私が選択したことが、ホタルの行動や生態など野外観察を中心とする研究であった。それでも発光パターン録画装置や発光パターン解析装置など、高価な機器類がどうしても必要であった。
それらを購入したいと思っても、もはや私費でまかなえる限界を超えていた。こうしたなかで1983年から3年間にわたり、文部省特定研究「生物の適応戦略と社会構造」の第5班「社会構造の行動的基盤」の研究班分担研究者として日高教授が私を参画させてくださった。この研究プロジェクトは大規模なもので、多くの大学の研究者を主体としたものであった。 
この特定研究を契機とし、以前から構想していた独自の発光パターン録画装置と解析装置を構築することができ、その後の研究を飛躍的に進展させることができた。現在のホタルの発光パターン解析装置は改良が加えられ、コンピュータを利用したシステムになっているが、基本的にはこの特定研究の機会に構築した発光パターンの記録解析機器が元になっており、それについては1985年に「植物防疫」(39(9):46-51)に報告されている。この特定研究で得られた研究成果は『ホタルのコミュニケーション』(大場信義1986年, 東海大学出版会)として一般向け著書として出版された。
それから20年以上経った現在まで、私は関連する学会でほとんど毎年欠かさず研究発表し続け、博物館の出版物を中心に論文を書き続けてきた。それまでの私の30数年間にわたるホタルの研究成果は2004年に実施された博物館50周年特別展示「ホタル点滅の不思議―地球の奇跡」で一般公開され、その際に解説書「ホタル点滅の不思議―地球の奇跡」(A4版199ページ, 横須賀市自然・人文博物館発行)が出版された。
この本は日本と世界のホタルの生態、形態、発光行動、コミュニケーション、同時明滅、発光パターン、擬態、外敵、防衛行動、生息環境、保全など多岐にわたり、自身の研究成果を中心に紹介したものであるが、特別展示開催中に完売され、全国のいくつかの大学や図書館ほかに保管されているものの残念ながら市販用本の在庫はない。この本の出版は私にとってはこれからのホタル研究の新たな出発点と考えている。
 
博物館活動の二つの柱
 私は1975年に横須賀市博物館に学芸員として博物館活動を開始してから2006年3月末に定年退官するまでの30年間、ホタルの研究活動を休みなく続けてきた。それらの成果を市民に公表するために、退官2年前には、上記した通り特別展示「ホタル点滅の不思議―地球の奇跡」を開催し、それは私のホタル研究の集大成となった。これまで博物館職員や横須賀市、市民の方々に支えられ、いろいろな制約はあったものの、一貫して長く続けることができた。その翌年の2005年には「三浦半島にすむ昆虫からのメッセージ 身近な自然 今昔」を三浦半島昆虫研究会との共催で開催した。この会は私が博物館に勤務すると同時に結成され、長い間、博物館と協働して調査研究を行ってきた。会誌「かまくらちょう」は2008年時点で既に70号を発刊するに至り、三浦半島の昆虫を語る際になくてはならないものとなっている。  
この会の発足当初には、会員の多くがまだ若かったこともあり、毎週のように博物館で夜遅くまで三浦半島の昆虫について語り合ったことが懐かしく思い出される。この昆虫の特別展示はこうした頃からの積み重ねの成果を反映させたものであった。
私は、学芸員自身が行っている独自性の高い研究とともに、地域の人々とともに行う調査、研究も博物館活動の柱にすることが不可欠であると考えている。即ちこの二面性を反映させた博物館活動の姿が私の理想とするものである。この特別展では三浦半島における半世紀にわたる様々な情報が集まり、環境問題にも迫るものとなった。ここにも継続することの意義の大きさを再確認した。 
 地域とともに歩む博物館活動はこれ以外にも様々な形がある。私は市内で改変され、また破壊されたホタルが生息する環境を再生する「ホタルの里づくり」にも関わってきた。その結果、先にも記した通り、2008年時点で30箇所を越えるホタルや水生生物がすむ水辺が市内で再生され、その各地域の人々が対象地を長年見守り続けている。そうした地域の人々は以下のようなホタルの会を発足させて、活動を地道に継続されている。横須賀ほたるの会、三浦ホタルの会、YRP光の丘水辺公園友の会、西逸見ホタルの会、田浦地区のホタルの会、津久井の自然を守る会、つちのこ会、鎌倉中央公園を愛する会ほか多数である。
こうした地域の人々との連携を図ることも博物館活動の大切な一端と思う。また地域活動には小中学校の取り組みも多く、教育現場との連携も広がっている。私は2006年の退官後も変わらずホタルの調査、研究は継続しており、以上のグループや施設、研究者と連携した活動も行っており、その拠点は全国各地に広がっている。
以上の活動を推進する上で重要な実験モデル対象地は博物館付属天神島臨海自然教育園と馬堀自然教育園であった。両園は自然保護、文化財保全、環境教育ほかの観点から博物館で管理、運営されてきた国内でも最初に設立された自然教育園である。両教育園はビジターセンターが設けられ学芸員の企画立案、調査研究に基づいて最適な利用と活用が長期間図られてきた。
馬堀自然教育園は2008年に開園50周年を迎え、この間ホタルをはじめとした動植物のモニタリングが継続され、三浦半島における里地の保全の拠点となっている。
同園ではホタル観察会が30年間以上にわたり毎年2回市民を対象に解説と観察会を実施し、延べ数千人の市民が参加している。参加者のなかには20数年前に親子で参加された女の子が母親となって今度は自身の子どもを同伴された例がある。即ち二世代にわたり参加されたのである。ここでも博物館活動の一貫性と継続性が大変重要であることを再認識させられた。

他機関との共同研究・海外学術調査
私は共同研究者とともに、ヒメボタルやゲンジボタルについてアロザイム解析を行い、地域固有性を国内で最初に明らかにした。また、 ホタルのコミュニケーション・システムの体系を基盤に置きながら、鈴木浩文氏(オリンパス光学工業株式会社)をはじめとした共同研究者らと日本産ホタルのミトコンドリアDNA解析により、ホタルの系統を更に詳細に明らかにしようとしている。
一方、ルシフェラーゼ遺伝子のDNA配列についても国外の類似種と比較するとともに、系統樹を作成しつつある。ミヤコマドボタルをはじめイリオモテボタルやヒカリコメツキなどは共同研究者である近江谷克裕氏(独立行政法人 産業技術総合研究所チームリーダー、北海道大学教授兼任)らにより研究が進められており、遺伝子解析や発光反応にとどまらず、臨床医学への応用といった面でも注目されている。
海外学術調査では、前記した近江谷氏を研究代表者とする科学研究費による国際学術研究「中国雲南省に日本のホタルのルーツを探る」に長年参画するとともに、これとは別に私と武漢の華中農業大学の付 新華氏との共同研究が既に8年間継続し、毎年両研究機関を訪ね、野外調査研究を行っている。これらの研究成果は続々と公表され始めている。なお、このようなことから、今後、一層中国におけるホタルの研究が進展することが期待できる。

自然保全・再生
多くの野外調査のなかで、大発生や新種発見の直後にはなぜか、それらのホタルの生息地の破壊が起こった。次々に失われるホタル生息地を目の当たりにしたときに、私はこうした生息地の保全・再生を強く願うようになった。
 特に、私が常に気に留めていたのは、都市近郊で自然環境が奇跡的ともいえる良好な状態で残された横須賀市野比地区の保全であった。当地はゲンジボタル、ヘイケボタル、トウキョウサンショウウオ、イモリほか多様な水生生物や昆虫類が生息する数少ない緑地である。野比地区は三浦半島内では最大のホタルの群生地であり、その重要性は1986年に『野比におけるゲンジボタルの生息状況と生息地の特色』として横須賀市博物館館報33号に報告された。
その後も、1988年に横須賀市生活環境事業部により、「ホタルの里づくり基本計画」の調査がなされ、報告書が作成されたほか、横須賀市教育委員会により、1987からはホタル生息状況の調査がなされ、1988年に『横須賀市野比のゲンジボタル生息実態調査概要』(横須賀市文化財調査報告書第19集)が報告された。
私の願いはこうした残り少ない里地を将来へ伝えることである。身近な自然は人々の心を和やかにし、私たち人間を包み込み、多くの小さな命とのふれあいがある。また、こうした里地には人の営みと歴史があり、“小さな世界遺産”として次代へと伝えるべき宝であると思う。
ホタルの研究は分子生物学および系統進化学的研究にとどまらず、様々な領域に広がり、特に最近では研究者・関係省庁・自治体・民間団体・個人がそれぞれの立場でホタルを通した環境保全・再生に取り組んでいる。
全国ホタル研究会などの各種団体はホタルの生息環境である豊かな里地を対象に研究の成果をもとに活動している。生物学は個体レベルの生物の十分な理解の上にたちながら、あらゆる分野との連携が不可欠であり、個々の学問分野の成果を統合して、人間・社会の学問とすることが要求されており、そのことを目標にもしている。
共同研究者らとともに行ってきた遺伝子解析は、ホタルの地域固有性、遺伝的多様性などを具体的に示すさきがけの研究となり、その後に全国各地のホタルの集団の遺伝子解析が他の分子生物学者によっても行われ、より実態が詳細に明らかになりつつある。
私はこれまで全国ホタル研究会や日本ホタルの会などに関わり、保全、再生の理念について機会あるごとに提言してきたが、これからは一歩踏み出して行動する時期にきていると思う。その前提として、地元での長い実践活動が伴っていることが不可欠であると考える。即ち、提言者に具体的な実践活動が伴っていなければ、その提言は机上の空論であり、無責任となりかねない。なお、「日本ホタルの会」の設立発起人は私と円谷哲男(全国ホタル研究会)、本多和彦(横須賀市役所)ほかであるが、活動目標はホタルを通して身近な自然を考える場をつくり、国や市町村などの行政にその重要性と有用性を理解してもらい、保全・再生を行政と市民が手を結び実現させようとするところにあった。
当初、私は会長に日高敏隆教授、副会長として矢島 稔氏(元ぐんま昆虫の森園長)にお願いし、快諾を得て、毎年シンポジウムや研修会を開催してきた。この活動が継続されるに従い、当初の目標が次第に達成されていった。しかし、私は1998年に大病を患い、この会の活動への参画を中断せざるを得ない事態となり、これを契機に会組織の再編がはかられた。2008年時点では会の発起人の一人であった本多和彦氏を会長として、活動が継続されている。
本多氏は私が横須賀市博物館に在職していた当時に市の下水道部に所属されていた。氏を含めて市役所内の同僚であった円谷哲男氏(全国ホタル研究会理事)らと私は「水系環境を考える会」という自主研究グループを結成し、仕事を終えてから、水辺環境について長期間、共に論議や現地調査を重ねてきた経緯がある。
この他に全国各地に私が関わったホタルの会が数多くある。これらは『図解 親子で楽しむホタルの飼い方と観察』(大場信義著、ハート出版)や『ホタル復活大作戦』(大場信義編著、合同出版)でも紹介しているが、その後、名称変更や、新規の会が加わっている。
私が在住する神奈川県の三浦半島では、私が多少なりとも関わったホタルやトンボなどが生息する水辺が前記したとおり30箇所以上となり、その一部では市民協働による維持管理が継続されている。こうしたなかで、各々の地において、保全・再生への試行錯誤が繰り返され、課題の解決などに向けて努力がなされている。このような実践活動が今後のホタル生息環境保全・再生にとって大きな方向性を示すものと思う。これらのいくつかの事例は2004年に出版された『だれにもできるホタル復活大作戦』(合同出版)に紹介されているので参照いただきたい。
 さて、私は継続の重要性という観点から、博物館退官後に学校評議員の一人として地元の馬堀中学校を中心とした「ホタルの里づくり」を支援している。学区内周辺には4つの小学校もあり、いずれも校内に水辺のビオトープを造り環境学習に活用されている。私の目標は単なる「ホタルの里」ではなく、「ホタルの里づくり」を通した地域コミュニティの再生にある。学区内には水源地や水に関わる地名が多く、命の根源となる水をキーワードに、森から海へと連続する水辺環境を見直すことにある。こうした学校と地域住民が連携し、継続的に活動することは、失われつつある地域文化復活にもつながることと思う。
学区内の小学校のなかには既に10年前から構内で「ホタルの里づくり」が進められ、毎年ホタルが発生している。こうした小学校の子どもたちは卒業すると、その多くは馬堀中学校へ入学することになり、継続性は一層強くなることが期待できるのである。
この中学校で対象としたホタルの里は丁度、博物館付属馬堀自然教育園に接する学校の構内であり、手作りの水辺が小中学生、学校、地域の方々の連携で作られつつある。この対象地では水辺の整備以外にも畑や水田、果樹園づくりへと広がり、2008年2月までに毎月2回行った活動は今年8月末現在で62回を重ね、夢は大きく膨らんでいる。この活動のモットーは急がず、楽しく続けることである。手作りの畑や小さな水田にはトンボなどの多様な昆虫類が予想を超えて多く現れ、作業中にも、それらの観察を行い、楽しみのひとつとなった。畑で収穫した作物は関わった子どもたちとともに食べるなど、継続する上で大切な楽しみとなっている。
私はこうした実践活動を子どもたち共に行うことが重要と考えており、それを支える地域の人々の連携が広がることを期待している。

生息環境の変貌とその対応
陸生ホタルもほぼ同様な要因で減少しているが、幼虫が水系に依存しないために、むしろ森や林、畑周辺の環境の改変によって大きな影響を受けている。道路建設や人工照明の影響の大きさは沖縄県西表島での実情をみれば明瞭である。
この人工照明の影響を最小に抑制するためには、光の波長、明るさに対するホタルの複眼の感度を調べるとともに、ホタルの活動習性、コミュニケーション様式などを総合的に考慮しながら、種ごとの対策を立てることが必要とされる。私はこの問題解決をするために、各種ホタルに対する人工照明の影響を軽減するための実証的な研究を進めている。
私はホタルが生息する背景としての水田という観点で、2007年まで国立歴史民俗博物館の安室 知氏の共同研究プロジェクトに参画し、ホタルが棲む環境としての水田形態などを探った。こうした研究成果が米の生産性向上とともに生物の多様性や環境の付加価値を向上させる具体的な提案へ結びつくことを目指している。
一方、環境省は日本の里地と生物の多様性を保全するために、「モニタリングサイト1000里地」というプロジェクトを推進している。今後、100年間、地域住民、団体などが対象地を見守り続け、その結果を環境行政に反映しようとするものであり、長期的なプログラムとしてはかつて例がないと思われる。私はこのプロジェクトのホタルの専門家として委員を委嘱されており、これまでの研究成果や体験を最大限活かして日本の優れた里地の保全に全力をあげて取り組みたいと思っている。
国外においても、ホタル生息環境の改変は著しく、急速にホタルは減少している。私が関わってきた、台湾や韓国では、私が訪問した際に、それぞれにホタルの会が結成されたほどである。
タイ、中国、マレーシアでもホタル生息環境の変貌は深刻であり、私は現在、中国でのホタルを通した環境保全・復元をもうひとつの目標に据えて、中国の共同研究者らと調査研究を進めている。

著者プロフィール
1975年より横須賀市博物館学芸員、2006年3月で同博物館定年退官
1983年 京都大学理学博士
現在(2009年) 大場蛍研究所所長、独立行政法人産業技術総合研究所客員研究員、中国科学院昆明動物研究所客員教授、横須賀市自然・人文博物館研究員、横須賀市長井海の手公園ソレイユの丘ホタル館顧問、全国ホタル研究会名誉会長



セアカゴケグモの咬傷の影響
−危険なクモでないのか?−
清水裕行・金沢 至・西川喜朗
(大阪市立自然史博物館友の会)

1995年秋に日本への侵入が発見されたセアカゴケグモ(Latrodectus hasselti Thorell, 1870)はその後、関西地方に広く生息するようになり、大阪府では普通種となった。分布拡大とともに、咬傷件数も増加して、2009年9月現在で36例となっている。本種は「おとなしいクモで、毒性は弱い」という認識が、なぜか一般的になっているようだ。セアカゴケグモの危険性が少ないのであれば、私達は安心して暮らすことができるし、学芸員として市民にも安全だと説明ができる。この小文ではその妥当性を検証してみたい。

分布の現状
私たちは本誌14号(2005年10月16日発行)においてゴケグモ属の分布を報告した。その後、中国地方や九州各地でセアカゴケグモが新たに確認され、大阪府および東海地方での分布がさらに拡大した。結局、日本列島の16都府県で5種のゴケグモが確認された(図1)。1995年以来、日本列島で発見されたゴケグモ類はセアカゴケグモ・ハイイロゴケグモ・クロゴケグモ・ツヤクロゴケグモ・アカオビゴケグモである。このうちのアカオビゴケグモは沖縄県八重山諸島においては1995年以前から生息が知られていて、現時点では「在来種」とみなされていが、2009年に山口県岩国基地で確認された個体は明らかに移入されたものであろう。これらのうちで、最も分布範囲が広いのはセアカゴケグモで、最初に見つかった大阪府をはじめとする近畿(滋賀・京都・大阪・兵庫・奈良・和歌山)・東海(愛知・三重・岐阜)・関東(群馬)・中国(岡山・山口)・九州(福岡・宮崎・鹿児島・沖縄)の16府県に及んでいる。ハイイロゴケグモの分布域はこれに次ぎ、東京・神奈川・愛知・京都・大阪・兵庫・岡山・山口・福岡・宮崎・鹿児島・沖縄の12都府県で確認されている。クロゴケグモは群馬・滋賀・山口の3県で発見された。本種は近年に至って2種(クロゴケグモとツヤクロゴケグモ)あるいは3種(キタゴケグモが加わる)に細分されており、群馬県の個体はツヤクロゴケグモと判明した(小野, 2000 ; 2002)。滋賀県と山口県で捕獲された個体は「クロゴケグモ」とされているが、これらがこの観点から検討されたものであるかは不明である。
 セアカゴケグモは、関西地方と同様に、関東地方、中部地方の都市部において、今後もどんどん分布を拡大していくと予想される。

ゴケグモ類の毒
昆虫などの陸上節足動物が通過する人工物の間に不規則な網を張るゴケグモ類のメスは、糸にかかったそれらの獲物を感知して近づき、さらなる糸を後脚でかける。そして獲物の脚などに咬みついて毒液を注入する。口の両側に一対の牙を持ち、毒嚢で作られた毒液を毒腺経由で牙に送り、獲物の体内に注入する。この毒液は元もと消化液で、口外消化をして養分を吸収するためのものであったが、獲物を麻痺させる神経毒を含むようになったと言われている。
クモの毒の中に含まれる蛋白質には、種により異なるが、アルカリ性ホスファターゼ、エステラーゼ、昆虫に対する毒(アルジオピン等)、神経毒(α-ラトロトキシン、β-ラトロトキシン)、ホスホジエステラーゼ、プロテアーゼ、キニナーゼ、5'-リボヌクレオチドホスホヒドラーゼ、スフィンゴミエリナーゼD等があり、ゴケグモ類の毒液は強力な神経毒を含んでおり、神経毒は次の三種類の作用を持つ(Tu,1996)。
1)神経伝達物質であるアセチルコリンの神経細胞末端からの完全放出を引き起こし、その放出はα-ラトロトキシン投入後6分で極大となる。そのため咬まれた動物はけいれんを起こす。
2)体内のいろいろな器官を調整している交感神経系の神経伝達物質であるカテコールアミンを、神経終末から完全放出させる。そのため咬まれた哺乳動物の発汗を引き起こす。
3)昆虫の神経−筋肉連関作用をつかさどるグルタミン酸の伝達を妨害する。それで昆虫はクモにかまれると動けなくなる。これらの毒成分は、グルタミン酸の放出を促すものと、受容体を妨害するものの二種類があり、インドールや、芳香族基を含んだアミンで、アルジオピン、アルジオピニン、シュウドアルジオピニン、ネフィラトキシンなどである。これらの物質は人間では、グルタミン酸は主に脳内の神経伝達にたずさわっているので、影響は少ない。

半数致死量(LD50)
LD50(Lethal Dose、 50%)は半数致死量のことで、投与した動物の半数が死亡する用量である。毒物質の急性毒性の指標、致死量の一種としてしばしば使われる数値であるが、厳密な測定が困難であることや、動物愛護の観点から最近はあまり使われない傾向がある。通常は動物の体重1kg当たりの投与重量mg(mg/kg)で表示する。この数値は動物の種によって大きく異なり、イヌは抵抗力が強く、ネコとウマはクモ毒に対して敏感だと言われている。実験の容易さから、通常はマウスが使われ、ゴケグモ類では0.43〜2.20mg/kgとなっている。
一方、1頭のクモのもつ毒の量をマウスに対するLD50で割った致死指数が、ゴケグモ類で使われることがある。この数値は、ジュウサンボシゴケグモ0.404、ハイイロゴケグモ0.226、L. variolus 0.141、セアカゴケグモ0.120、クロゴケグモ0.106、L. bishopi 0.071であり(McCrone,1964等)、セアカゴケグモよりハイイロゴケグモの方がかまれた場合に毒性的には危険である。しかし、現実に咬まれた人の数と症状から判断すると、危険性の高さは、クロゴケグモ>セアカゴケグモ、アカオビゴケグモ>ハイイロゴケグモと考えられている。

セアカゴケグモの毒性
雌はクロゴケグモと並んで毒性が強く、オーストラリアでは屋外のトイレでの咬傷例が過去に多かったが、最近は減少している(加納,1995)。文献(Tu,1996 ; Minton, 1978 ; McCrone, 1964等)からの情報では、一匹のセアカゴケグモからとれる毒の量は0.08mg、0.120mgと少なく、LD50(mg/kg体重)はカエルで145、マウスで0.9、1.00、ギニアピッグで0.075であり、毒の影響は動物の種類により大きく異なる。このクモにかまれると、針で刺されたような痛みがあり、咬傷部は熱感を持ち、紅斑、浮腫、局部的な発汗が見られる。5分後に強い局所の痛みが始まり、全身に広がる。手足の痛み、腹痛などの痛みが一般的な症状で、後に吐き気や嘔吐も見られることがある(Tu,1996)。患者は時に激痛のため、ひどく取り乱し、異常に興奮する。30分後に局所リンパ節の疼痛と腫脹が起こる。下肢や生殖器をかまれると、腹部の疼痛が起こる。約1時間後、頭痛、悪心、嘔吐がしばしば起こり、発汗、頻脈が普通で、高血圧(上250、下170)が起これば、抗毒血清を静注しなければならない(加納,1995)。死亡率は母数の取り方で、3〜12%の幅があり、オーストラリアのタスマニアではこのクモがいるが死亡例はない。このクモの多い地域では、治療薬の血清を常備しているところも多い。オーストラリアでは、1956年からセアカゴケグモに対するウマの血清が市販されている。ウマの血清なので、人によっては血清病(血清アナフィラキシー)が起こり、1963〜76年の間に2062人がセアカゴケグモの抗血清の治療を受け、11人(0.54%)が血清アナフィラキシーを起こした(Tu,1996)。

第一回毒性試験の結果
日本に侵入したセアカゴケグモの毒性については、大阪府立公衆衛生研究所などが試験結果を数回にわたって公表している(大阪府環境保健部環境衛生課・大阪府保健所,1996、大阪府環境保健部環境衛生課・大阪府保健所,1997、大阪府立公衆衛生研究所,1998、大阪府大阪府環境保健部環境衛生課・大阪府保健所,1999)。それらの結果を概観してみよう。まずは最も影響を与えたと思われる第一回試験の結果はとても重要であるので、大阪府立公衆衛生研究所の広報発表資料をそのまま次ページに再録する。


要約すると、11月25〜30日に高石市、貝塚市で捕獲された20頭のクモから採取した毒液を使って、1頭分のクモの毒0.2mlを、マウス10頭に腹腔内注射によりそれぞれ投与すると、5頭が2〜4日後までに死亡した。また、ゴケグモ属の神経毒素の主成分であるα-ラトロトキシンは検出されなかった。この検査結果から、毒性は比較的弱く、ヒトがかまれても重傷になることはないと判断している。報道資料にはLD50の数値や毒量についての測定値は含まれていない。毒量が少ないことは、小さなクモの毒腺なので、一般的な認識としてもあり得るし、新聞報道にも含まれているので、口頭で発表した可能性があるが、LD50値は新聞報道にも出てこない。毒性を示す数値として広く用いられているLD50値を示さずに、「毒性は弱い」と断定するのは早計である。また、α−ラトロトキシンが検出されなかったことは、毒性の強さに対する評価には全く影響しない。毒性実験は成分表を基に毒液を合成して行うのではなく、実際に抽出された毒液を用いるのであるから、その内訳が毒性実験の効果を左右することはありえない。クモ毒は単体の化合物ではなく、複数の有機物質の混合体であって、咬まれた場合に被害を及ぼす可能性があるのは、α−ラトロトキシンだけではないからである。
つまり、「毒性は強いが、(1個体当たりの毒量は少ないので、)人が咬まれても、死亡する危険性は低い」ということになる。「毒は弱い」という報道は不正確と言うべきであろう。「考えられていたより弱い」と喧伝されたのは、当日の報道発表において研究所員によるコメントにも原因がある。いわく、「体重20kgの人が一度にセアカゴケグモ百匹に咬まれても死亡する恐れはない。」実験データよりも、この気の利いた?コピーの方が注目を浴びて、「セアカゴケグモ安全説」が流布してしまったのが実態である。

マスコミの反応
1995年12月6日付の新聞各紙は、前日に発表された大阪府立公衆衛生研究所によるセアカゴケグモの毒性検査結果を大々的に報じた。各紙の論調は、「毒グモ、それほど怖くない」(朝日)など、おおむね「毒性は従来考えられていたより弱かった」というニュアンスであった。府の発表は決して楽観論一色ではなく、「毒がないわけではないので今後も引き続き注意を呼びかける」(毎日)、「夏季など活動の活発な時期には、毒性が強くなる可能性も残る」(産経)といったコメントも掲載されたものの、全体に漂う「これで一段落」といった空気に埋没してしまったようである。実際、クモを対象としたものとしては空前の報道合戦も、これで転機を迎え、以後は、新顔のハイイロゴケグモの発見報道(横浜市・大阪市・東京都品川区)と「騒動」を回顧する総括的記事が断続的に掲載される状況が翌1996年1月末まで続いた程度であった。
 しかし、この実験結果に対しては、「この結論は明らかにおかしい。実際にセアカゴケグモに咬まれて死んだ例があるのだから」(吉田,2004)と考えるのが自然な感覚であろう。当初、海外にもこの結論だけが伝えられたようで、セアカゴケグモの危険性に対しては楽観的な立場をとり、日本人の「騒ぎ過ぎ」に警告を発した(1995年11月29日付『朝日』)オーストラリアのトキシコロジストのジュリアン・ホワイト博士も「データの解釈あるいは試験方法に明らかな問題がある」と述べたとのことである(鶴崎, 1996)。問題なのは、「事件を沈静化することをねらったあまり」(吉田,2004)、種によって生理条件が異なるという基本的な認識を忘れて単純計算し、安易な結論を導き出したたことにある。善意から出た行為とはいえ誠に残念である。これが大きな波紋を呼び、社会一般は、「『毒グモ』は全くの虚構」という実に単純明快な反応を示した。以後はこの報告というよりも、結論を根拠に、識者は「それでは、なぜこのような騒ぎに発展したか?」と「空騒ぎ論」を展開する。「安全である」「いや、問題がある」といった評価(結論)のみの「一人歩き」現象が生じて、報告内容自体の再検証は全くなされていない。衛生研報告がその後の日本社会における「ゴケグモ観」を決定したことは間違いない。
ゴケグモ報道はセアカゴケグモの新たな生息域(和歌山市)発見を機に1996年の後半に再開され、以後、ローカルニュースとして断片的に報じられて現在に至るが、学問上の論争を経ない曖昧な姿勢による幕引きが災いして、「安全だったはずなのに、なぜ今更騒ぐのか」といった受け止め方が住民には一般的で、肝心の「『毒グモ』とどう接していくべきか」という認識がなかなか確立しない状況である。

「百匹論」の問題点
世の中では往々にして、順序だった解説よりも、わかりやすいキャッチフレーズの方が訴えるものが大きいことがある。衛生研実験報告の際にも、この種のコピーが強いインパクトを与えており、これがデータに対する冷静な判断を妨げた観がある。『毎日』を除く全国4紙は見出しあるいは文中で、「30kgの人がセアカゴケグモ百匹に一度に咬まれても、死ぬ恐れはない」という研究所員の発言(多分、アドリブであろう)を掲載した。「百匹に一度に咬まれる」という状況は実際には起こりえないから、「セアカゴケグモに咬まれて死ぬ人は皆無」という結論に達するのは自然なことである。
なお、「百匹に咬まれても」と効いて、関西の読者は、百人の人が物置に載って耐久性をアピールするテレビCMを連想したのではないか。また、衛生関連では、「エイズ患者の唾液をバケツ一杯呑んでも感染する危険はない」という解説があったようである。今回のコピーが人口に膾炙した背景にはこのような下地があったのかもしれない。
 問題はこの判断の妥当性である。ここでいう「百匹」は計算上のものである。体重30gの人は、20gのマウスの1500頭分である。「単純計算」では、2kgの人の場合、百匹に咬まれると半数が死亡するが、15倍の体重(従って、相対的な毒性は15分の1)ならばほとんど死ぬ懸念はないという判断によるものと思われる。ところが、この計算方法には問題がある。毒に対する感受性にかぎらず、動物の生理的特性は種によって異なる。従って、マウスのデータをそのままヒトに適用するのはそもそも無理がある。体重30kgの人はあくまでヒトであって、体重30kgのマウスではない一般に、ゴケグモ類の毒に対する感受性は大型の哺乳類ほど高いという傾向がある(吉田,2004)。大阪府の発表者自らが「単純計算」と称する通り、この喩えは成立しない。
 もうひとつ問題なのは、比較対象に「体重30kgのヒト」を想定したことである。体重30kgといえば小学生である。体力の劣る年少者や高齢者・病人に対しては、体重比以上に危険性が高いことは衛生件も指摘していた。「単純計算」を適用すべきでない年少者を例に挙げた時点で問題があった。 なぜ、「体重60kgの成人」を例に挙げなかったのだろうか。『読売』はこの矛盾に気付いていたためか、「百匹に咬まれても安全」なのは「子供」、「注意が必要」なのは「幼児」と使い分けていた。苦心の産物というべきであろう。
 一部の識者からは疑問が出たものの、府衛生研の「安全宣言」めいた発言(大阪府は決して「安全宣言」とは断じていないが、一般にはそう受け止められた。発表当事者のアドリブがいかに突出したものであったがよくわかる)は、クモ研究者やトキシコロジスト(自然毒研究者)も含んだ一般読者には素直に受け入れられたようである。これは、それ以後の楽観論のほとんどが、“百匹発言”に基づいていると目されることからも頷ける。後になって冷静に考えれば「明らかにおかしい」(吉田,2004)と思うのだが、その時点ではもっともと思う人が多かったようである。(その後も、この説を金科玉条としている者が識者の中にも結構存在するようである)
この論がほとんど鵜呑みにされた理由として考えられるのは、“日本の公的期間による最新の試験結果”であるためであろう。「公立研究所の学者の言うことだから、間違いではなかろう」という信頼感(盲信?)がまずあったであろう。確かに、「毒グモ」の情報には誇張が多く、古いものには伝説に類するものもある。しかし、クモ研究者が参考にしたデータは、古くて遠方(オーストラリア)のものではあるが、科学的な実験に基づいて得られたもので、決してオカルト的な代物ではない。検体の数からみても衛生研のデータに優っている。「新しい」、「近い」という理由で、今回の結果が無条件に優先するとは言えない。“距離的にも時間的にも最も近いデータ”という点に目を奪われて、その後も修正されることなく、多くの識者に刷り込まれたままであったのは、「騒動」の渦中にあった頭が熱かった時期に得られた情報であったためかもしれない。冷静な判断を欠いたという点では、むやみに「毒グモ」を恐れるという、対極の位置にいた人々と同様に、彼らもまた「パニック」の真っ只中にいたといえる。
府民を安心させたいという善意から出たものと思われる「百匹に咬まれても安全」という発言は余分であった。「百匹論」は今回の実験報告の中では枝葉末節であって(実際に、府の公式な報告書の中では触れられていない)、鬼の首を採ったようにこの問題に言及するのは、大人気ないことではあるのだが、あまりにもこの名言(?)が影響力を持ったため、正面から批判せざるを得なかった。

マスコミの体質
マスコミの体質も問題である。戦中にはいわゆる「大本営発表」を鵜呑みにして報道し、国民を破滅寸前に追い込むお先棒をかついだマスコミは、戦後にその構造的な問題を反省し、裏を取って確認するという作業が生命線になったはずである。今回の場合には、セアカゴケグモに関する有識者に取材して、大本営発表とも言える大阪府の発表を検討できたはずだ。鵜呑みにして報道したことは、いまだに同じような構造的な問題を抱えていることを示している。
日本のマスコミの構造的な問題として記者クラブ制度がある。官公庁に設けられた記者室に集まる記者(の属する報道機関)が、結束してつくる談合組織のようなもので、日本特有の制度と言われている。排他的で、公式発表を鵜呑みにして報道することにより、多くの弊害が指摘されている。この毒性試験の結果も、記者クラブによって、広報された可能性がある。毒グモ騒動を引き起こした、熱しやすく冷めやすい報道合戦も、記者クラブの影響があるのではなかろうか。

クモ研究者の反応
クモの毒に詳しいはずの日本のクモ研究者は衛生研の発表をどう評価しただろうか。「詳しい」と言ったが、日本のクモ研究者の大半は、「セアカゴケグモの毒性」について精通しているわけではない。1995年以前にすでにゴケグモ類を研究していた日本の研究者はごくわずかである。ただし、クモ毒に関する一般的知識はあるから、専門の異なる研究者や報道関係者の発言を客観的に判断する能力はあるはずである。
まず、「百匹論」についてはほとんどのクモ研究者が疑問を露にしている。前述の吉田 真氏がそうであるし、直接「百匹」問題に言及したものであるかは不明であるが、オーストラリアのホワイト博士も疑問をもったようである(吉田, 2004 ; 鶴崎,1996)。
LD50値について言及した研究者もある。「クロゴケグモは1キログラムに対して1.0ミリグラムである。セアアカゴケグモでは0.59ミリグラムであったが、毒性が高いことには変わりがない」(大崎, 2004)。セアカゴケグモの方が少ない毒量で致死率が高いのであるから、この限りでは「セアカゴケグモの方が、クロゴケグモよりも毒性が強い」という結論に至るのだが、一般には数値が大きいほど程度が高いと考える傾向があるので、一部の読者は逆に解釈した可能性があるのが気がかりである。実際には、実験誤差や季節的変動も考えられるので、両種の毒性はほぼ同程度と考えるのが妥当であろう。
なお、一部に「日本に来たのは毒性の弱い個体群」という観測が流れたが、これは「今回の実験値はあくまで大阪府産の個体に基づくもの」という至極当然な研究姿勢を曲解したものであろう。オーストラリアにおいては、地方によって被害者(死者)の数に差がある(西川・金沢, 1996)という事実もこのような誤解につながったかもしれない。しかし、これは、「死者の数の地方差」を示すものであって、「毒性の地方差」のデータではない。決して、地方ごとに実施した毒性実験の結果を比較したものではない。地方によって被害者の数が異なるのは、主として、生活環境(人口密度、生活様式等)の違いに起因するものであろう。実際、2003年に大阪府におけるセアカゴケグモの生息状況を視察したオーストラリアの行政関係者は「日本はオーストラリアに比べると、人口の密集度が高いので、注意が必要である」という警告を残している(2003年7月10日付『朝日新聞』)。
どうも、日本のクモ研究者は、府衛生研の発表に疑問を感じながらも、「毒性は従来考えられていたよりも、はるかに弱かった」と思いたかったようである。これはうがった見方をすれば、「クモ学者が不安を煽った」とする一部の観測に対する、無意識の回避行動なのかもしれない。

その後の毒性試験
実は、マスコミには全く注目されなかったようだが、第一回毒性試験の後、数回にわたり毒性試験は行われている。方法もかなり洗練されてきた。大阪府立公衆衛生研究所(1998)に含まれる木村・高木論文によれば、第一回試験では「LD50値が0.59mg/kgと算出された。しかしその際の試験は緊急に実施したため、使用したマウスの系統ならびに匹数、および毒腺液の希釈濃度の段階数が少ないこと等の問題点が残った」とのことである。ここでLD50値が初めて明記される。
第二回(どういうわけか第一回と表記されている)は、1996年夏季前期(7月9〜10日)、後期(8月21日)に大阪府内で捕獲された合計28匹のセアカゴケグモを使用して、1匹分、0.32匹分、0.1匹分を調整して腹腔内注射した。その結果、1匹分と0.32匹分では100%、0.1匹分でも過半数の60%が死んだ。これは第一回目の試験結果とかなり異なり、強力な毒性があることがわかったのである。さらに、LD50の数値も1996年夏季は0.205mg/kg、第3回の1997年冬季は0.508 mg/kgであり、これも大幅に第一回試験を上回っている。同時にマウス皮膚咬傷実験も1996年夏季前期(7月11〜15日)、後期(9月15〜16日)のものを用いて行っているが、死亡率は30%とのことである。
その後も毒性試験は続き、ほぼ10 年後の2006年6月から2007年3月にかけても同様な試験が行われている。目的は、「10年前に実施した毒性試験結果との比較」、「幼齢マウス、若年マウス、老齢マウスに対する毒性の比較(ヒトの幼児、成人、高齢者に対する毒性の推定)」、そして、「再度クモに咬まれた場合のハチ毒等に見られるアナフィラキシー症状等についての検討」である。試験方法はほぼ同様である。試験結果は、「若年マウスの半数致死量値(LD50値)は0.88mg/kgで10年前捕獲されたクモとの毒性に大きな変化はなかった。一度咬まれた場合、健康な成人では生命に関わることはないと推測されるが、幼児や高齢者では健康な成人と比較して重傷となる可能性があることも示唆された。(これまでの咬まれた事例では重傷例はない。)二度目に咬まれた場合、一部に懸念されていたようなアナフィラキシー症状等のアレルギー反応は見られなかった」としている。

実際の死亡例
セアカゴケグモによる死亡例は、早いケースでも数時間、多くの場合は、1日以上経過してからのものであった。ただし、アナフィラキシーショックの場合はきわめて短時間、時に数秒で死に至るので注意を要する。これは、2度目に咬まれた際に発生するが、誰にでも起こることではない。アレルギー体質の人に起きやすい現象である。このような体質は、「20人にひとり程度」とも言われている(2001年8月15日付『東京新聞』)。
オーストラリアにおける死亡者の数は、通算して14 名で決して多くはない。最も新しい例は、1994年のアナフィラキシーショックによるものである。「年間数名」と報じた新聞があったが、これは「14年間に 1726人が咬まれ、55人が死亡」というアメリカ合衆国におけるクロゴケグモによる死亡例である。報道陣に「参考データ」として提供されたものが混同されたのであろう。
死亡率は文献によって幅があるが、これは平均して5%程度といわれている。ただし、通常、治療を受けた人数を母数にしているので、実際の咬傷被害数を母数にすれば、当然、死亡率自体はもっと低いものになる。しかし、軽症で治療を受けなかったり、公的機関に届けられなかったケースは把握されないので、実際の死亡率を算出するのは不可能である。「被害者の実数は届け出数の10倍程度だろう」との推測で数値をはじき出しても、それ自体が実態のないデータであるからナンセンスである。「死亡率は誇張されたものだ」という意見があるが、実数に基づく限り、このようなものにならざるをえない。「100人が咬まれたら、そのうちの数人が死亡する」と解釈すべきでないことをご理解願いたい。

ハチ毒によるアナフィラキシーショック
日本ではスズメバチ類・アシナガバチ類・ミツバチ類に刺されて年間約30名が亡くなっている。そのほとんどがアナフェラキシーショックによるものと言われている。ハチ毒に対してアレルギーをもつ人でなければ、ハチに刺されても強い痛み、かゆみ、発赤、はれといった局所症状があらわれるのみで、通常3日間ほどで消失する。しかし、ハチ毒アレルギーの人ではきわめて強い反応が起こり、嘔吐、寒気、全身のじんましんといった全身症状から、呼吸困難や意識障害などのショック症状があらわれ、時には死に至る。これをアナフィラキシーショックと呼んでいる。ハチ毒に含まれるアミン類やペプチド類といった物質が関わっているようだ。アレルギー体質の人では、ハチに初めて刺された場合でも、通常より重症になり、アナフィラキシーを起こすことがある。ハチ毒にアレルギーをもつ人は、20人に一人と言われている。ハチ毒で起こるアナフィラキシーショックが、セアカゴケグモでも起きる可能性はないのだろうか? 
奥野(1997)は、「セアカゴケグモに咬まれてもアナフィラキシーショックを起こすことがないので、適切な診断と治療を行えば死ぬことはない」(p. 26)と明記している。大阪府の環境衛生のホームページでもそう明記されているので、インターネット上の相談室などでセアカゴケグモの毒の強さを訊いた質問で、よくこの大阪府のHPが引用されている。この言明は影響力がとても大きいと考えられる。アナフィラキシーショックが起きないという根拠は何だろうか? 大阪府の関係者のある人は分子量を問題にしている。その方は、セアカゴケグモの毒として有名なラトロトキシンは分子量が小さく、アナフィラキシーの抗原にならない」と説明した。分子量とアナフィラキシーが関係あるのだろうか? さらにマウス実験も行われている。

アナフィラキシー実験?
10年後の毒性試験として、前述したように大阪府公衆衛生研究所は、「初回および再投与試験結果の比較」というタイトルで、「セアカゴケグモの毒はα-ラトロトキシンと呼ばれる神経毒であり、ハチ毒のように急性のアレルギー反応を引き起こす事は無いとされている。しかし、2 度目に咬まれた場合のアナフィラキシーショックを懸念する一部の識者もある。そこで今回、若年および幼齢マウスを用いて、毒腺液の再投与試験を実施し、マウスのアレルギー反応や中毒反応の程度について検討した」結果は、「毒腺液を再投与された若年および幼齢マウスではアナフィラキシーショック等の急性のアレルギー反応は認められなかった。また死亡率および中毒症状については、若年マウスでは何らかの原因で投与前から衰弱していた個体を除き、初回投与時と比較すると著しく軽症であった。これは初回投与時に生存したマウスにα-ラトロトキシンに対する抗体が産生され、中毒症状を軽減しているからであると考えられる」と結んでいる。クモ毒アレルギーをもつマウスを選別して試験しない限り、普通のマウスにアナフィラキシーが起こることはないから、この実験は全く意味がない。また、もしクモ毒アレルギーをもつマウスを見つけて試験しても、その結果がヒトに応用できると判断してはいけないだろう。それほど、アレルギーは哺乳類種の差と個体差が大きいと考えられる。これも結果が試験前から定まった安全作戦の産物と言える。

アナフィラキシーの可能性
加納(1995)は、セアカゴケグモに咬まれたときの症状として、「稀に奇妙な症状として次のような症状が起こることがある。・・・アナフィラキシーショック・・・」(p. 9)と記している。また、Tu(1996)は、「同じクモに何回もかまれると、クモ毒に対して過敏になり、そのためにアナフィラキシーで死亡した例がオーストラリアにある」(p. 103)と報告している。さらに、クモ毒によるアナフィラキシーショックにより、1994年末に若い女性がかまれて短時間で死亡したという情報がある。夏原(1996)は近縁のクロゴケグモに関する報告(Clarke, 1992)を引用して、「最近、163件のゴケグモ症のうち、死亡例はアナフィラキシーショックからの気管支けいれんによる1例」(p. 17)と記している。文献上はセアカゴケグモでアナフィラキシーショックが起きたことがあり、HP上でもジュウサンボシゴケグモでアナフィラキシーショックが起きるという情報を発見することができる。
また、小野(1993)は、「クモ毒の成分はあまりよくわかっていない。最近、人間の脳や神経疾患の治療薬としてクモの毒成分を利用しようとする研究がさかんに行われているが、実際に毒成分が調べられたのはわずか10種にすぎない」(p. 306)、セアカゴケグモなどのゴケグモ類が発見されるまで、日本で最も咬傷例が多かったカバキコマチグモの毒に関して、「実験ではマウスに対する致死活性があり、アレルギー体質の人は症状がひどくなることがある」(p. 307)と記している。つまり、クモ毒の成分は、ラトロトキシンだけでなく、いろいろな毒成分があり、その中にはアナフィラキシーを起こすアミン類も含まれているのである。セアカゴケグモによりアナフィラキシーが起きる可能性は排除できないだろう。

アナフィラキシーショックによる死亡例は、セアカゴケグモの死亡例から除外されるべきだろうか?
「死亡例はアナフィラキシーショックによるものであって、クモ毒が原因ではない」ととれる意見が、日本のトキシコロジスト(自然毒研究者)の共同執筆による本の中にあった(唐木, 2000)。 オーストラリアにおけるセアカゴケグモ咬傷による死亡例は通算して14例で、この中にアナフィラキシーショックによるものが含まれている可能性は否定できない。しかし、すべてがそうであるという確証はない。この本の執筆者は、最新の死亡例(1994年)がアナフィラキシーショックによるものであることから 全体を推測したようで、慎重に欠ける姿勢と言わざるをえない。また、傷口から破傷風菌が入ったようなケースと異なり、アナフィラキシーショックの場合は、 間接的であっても、クモに咬まれたのが原因と見るのが自然であろう。トキシコロジストには化学畑出身者が多いためか、アナフィラキシーショックのような内因性(アレルギー)の死因を除外する傾向にあるという。しかし、同書のオオスズメバチの項では、「死因のほとんどがアナフィラキシーショックによるものであるから、ハチ毒による死亡例はゼロである」とは書いていなかった。執筆者が異なるのかもしれないが、統一性にかける。

おわりに
このように、一般に流布している「おとなしく、安全なクモである」というセアカゴケグモ像とは異なり、かなり危険なクモであり、咬傷例の増加とともに、重症に陥る例が増えていく可能性が否定できないクモという結論に至る。しかし、アナフィラキシーショックが起こらない限り、死者が出ることはないだろう。その点ではハチ類の中で最も大きく危険なオオスズメバチよりは安全な生物と思われる。このような当たり前の結論が、一般的になっていない理由には、事実を正確に伝えることよりも、パニックが起きないように正しくない情報も伝える行政側の意図(これを安全作戦と呼んでいる)と、それを鵜呑みにして伝えるマスコミ側の問題があると考えられる。これに熱しやすく、冷めやすい日本のマスコミの性質が加わって現状が形成されたと思われる。

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吉田 真, 2004. ゴケグモ騒動からみた日本人の自然観. トンボと自然観, pp.309-336.
大阪府による毒性試験の広報発表
http://www.pref.osaka.jp/kankyoeisei/seaka/dokusei.html


会費納入のお願い
同封の振替用紙で会費の納入をお願いします。年会費は昨年の総会で500円となりました。最近払っていない方は、まとめて支払っていただけると助かります。


第18回昆虫担当学芸員協議会総会のご案内

今年も日本昆虫学会大会の小集会の形で総会を開催します。今回の総会のテーマは、「海外博物館事情−先進的事例を学ぶ−」です。文部科学省の海外研修において貴重な経験を積まれたお二方に、その内容を紹介していただきます。日頃の学芸員生活を振り返る機会にしましょう。積極的な参加をお願いします。終了後に恒例の懇親会を行う予定です。

会場:三重県津市栗真町屋町157 三重大学キャンパス
  日本昆虫学会第69回大会C会場
日時:2009年10月11日(日)18:30〜20:30の2時間
話題提供:「海外博物館事情-先進的事例を学ぶ-」

1.ロンドン自然史博物館滞在記
松本 吏樹郎(大阪市立自然史博物館) 

文部科学省学芸員等在外派遣研修制度により滞在したロンドン自然史博物館(The Natural History Museum, London)の様子を紹介する。同館は250年以上の長い歴史を持ち、膨大なコレクションを抱えている(昆虫は2800万点)一方で、年間300万人を越える来館者を迎え、展示や普及活動では最近新たな動きが見られるようになってきている。滞在中に印象に残ったのは、膨大かつ質の高いコレクション、世界の材料を扱うためのcuratorの高度なスキル、研究、コレクション管理、普及と分業が進んでいる一方、それぞれの連携がやや欠ける点、インタラクション重視の館内普及活動とそれを支える豊富なコレクションなどである。今回の研修でコレクションの重要性を改めて実感した。それぞれの地域・専門分野に関して、標本を蓄積すること、またそこから情報を引き出し公表することは言うまでもなく最も重要な博物館の活動であるが、十分に取り組めているであろうか?これには館員の努力も必要だし、協力者をいかにつくりだすかも重要である。滞在中に建設されていた収蔵施設ダーウィンセンターフェーズ2(DC2)の完成に伴い、ハチのコレクションは3月にここに移動した。完成後のDC2の様子も紹介する。

2.ヨーロッパ中央部の自然史系地方博物館
−バーゼル自然史博物館ほか数館−

奥島 雄一(倉敷市立自然史博物館)
演者は、平成20年度文部科学省学芸員等在外派遣研修に参加し、スイス・バーゼル自然史博物館に3か月半の間滞在する機会を得た。同館は189年もの歴史があり、地方自治体が運営する博物館ながらヨーロッパの代表的な博物館のひとつとして国際的に知られている。研修館では実際にスタッフや館に所属する大学院生・研修生あるいはビジター研究者らとともに資料管理業務や教育普及活動を中心とした博物館業務に参加することによって、運営理念や館スタッフと利用者双方の立場において博物館の求められる機能や利便性を調査した。その結果、博物館活動の中心は資料の収集保管であるという強い理念のもとに運営されており、資料の活用についてはさまざまな手法で市民レベルから専門の研究者にいたるまで広く公開され、ビジターが快適に効率よく収蔵資料を活用できるよう配慮がなされていることが実感できた。そして、それらの活動はバーゼルがヨーロッパの中央部に位置するスイス・ドイツ・フランスの国境の町という土地柄もあり、ごく普通に国際的な活動として実施されている。あわせて、現地滞在中に訪問した周辺の数館についても簡単に紹介したい。

昆虫担当学芸員協議会ニュース 18号 (2009年9月28日印刷・発行) 発行:昆虫担当学芸員協議会 事務局:大阪市立自然史博物館昆虫研究室(金沢 至,初宿成彦,松本吏樹郎) 〒546-0034 大阪市東住吉区長居公園1-23 TEL 06-6697-6221(代) FAX 06-6697-6225(代) E-Mail kana@mus-nh.city.osaka.jp 振替口座:00920-6-138616 昆虫担当学芸員協議会

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